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「三人どころぢやない、五人も十人もある」
――もともと、練吉は房一から対診を頼まれたことさへ少からず意外だつた。これが若し、自分の場合だつたら、それは弱味を見せるといふことだつた。彼はまだ、房一に対診を頼むやうなことはつひぞ考へたことはなかつたし、これから先だつてそんなことを考へつきはしないだらうと云ふより、練吉には漠然と、房一を自分と同じ医者だと見る気にはいまだになれなかつたのである。
その何番はわたしの隣室で、当分お客を入れないといったのも無理はない。そこは幽霊(?)に貸切りになっているらしい。宿へ帰ると、私はすぐに隣座敷をのぞきに行った。夏のことであるが、人のいない座敷の障子は閉めてある。その障子をあけて窺うかがったが、別に眼につくような異状もなかった。
「あれですよ。半之丞の子と言うのは。」
根津は自分の座敷から脇差を持ち出して再び便所へ行った。戸の板越しに突き透してやろうと思ったのである。彼は片手に脇差をぬき持って、片手で戸を引きあけると、第一の戸も第二の戸も仔細なしにするりと開いた。
房一はその一見粗雑な性情にかゝはらず、現実の直視力のごときものを持つていた。彼を導いてその運命をつくらせたのもその力だつたが、今自分が他の誰のでもない彼自身の足の上にしつかりと立つている自信を持つたときに、ふりかへつて自分がそこから出て来た場所、老父の道平やその身の上に降りて来た運命のまゝに依然として百姓仕事に甘んじている兄弟達のことを考へた。単に好人物といふより他はないその手の皺の間に土の浸みこんだ日焼けのした兄弟達は、誰から云ひ聞かされたわけでもないのに自分に与へられた運命の限度を知つて日々を落ちついて暮しているあの楽天的な人達であつた。彼等は今房一の成功を恐らく当人以上に悦んでいた。彼等にとつては房一はその唯一の代表者であつた。誰でも世間的な野心は持つているものである。そのないやうに見える人達にあつても、それは眠らされて見えがたくなつているか又は何らかの形に変形されているものである。そして、この世間的な野心といふものも、実は生の根源力にほかならない。彼等のあきらめていたもの、若しくは自然にあきらめたと同じ結果になつたこの野心を房一の中に見た。それは房一のものでもあるが、同時に彼等のものだつた。今彼等は彼等自身の全部の希望をこめて、懸命に控目に房一を支持しようとしていた。その単純な幸福さうな輝きが房一の心を捕へた。
一
「さうですが、それはさうにちがひないが――」
徳次は年下だつたせいもあるが、子供の頃やはり泥まみれになつたり、着物の裾を水浸しにしたりして、房一の行く所にはいつもついて行つたものだ。彼は房一の悪戯いたづらの共謀者でもあれば手下でもあつた。彼の単純な胸の中には、いまだにその頃の房一に対する尊敬の念が残つているのである。房一が「医師高間房一氏」になつて河原町に帰つて来たとき、子供の頃の房一の記憶を一番大切にしていて、それをつい昨日のことのやうに憶ひ出していたのは恐らくこの男だけだつたらう。それにもかゝはらず、房一は世間的な仕事に気をとられていて、彼のことを失念していた。徳次は甚だ心外であつた。だが、その臆病さのために自分から房一の前に姿を現すやうなことはしなかつた。彼はその不満を汚い家の中で垢だらけの子供達を肩につかまらせたまゝ、自分の妻に話して聞かせた。それだけだつた。他の人の前ではちつとも洩らしはしなかつた。若し口に出せば、大声をあげて町中を走り、房一の家に荒ばれこみたくなるにちがひない、と自分でも思つていた。それほど彼の心外さは深かつたのである。
私はもともとヌル湯好きで、いつまでつかっても汗のでない程度が好きだ。
「訴訟があるさうで、面倒なことですな」
こんな風にして、徳次は河原町に集つた荷を船に積んで、河口の吉賀まで運んで行くのである。だが、遡さかのぼるのは十倍も厄介だつた。空荷なのがせめてものことで、手伝ひの船頭を二人はどうしても雇ひ入れなくてはならない。一人を舟にのこして、後の二人は肩に綱をかけて岸に沿つて曳き上るのである。下りが四時間たらずで行けるところを、まる一日、水でも増えると朝早く出て夜に入ることがある位だ。これが徳次の父親の、その又前の祖父の代からの家業だつた。足場の悪かつた昔なら、これでもれつきとした、又実入りも悪くない商売だつたにちがひない。だが、国道ができてからは荷馬車といふやつがごろごろ大きい音をたてて通るし、おまけに鉄道が西と東と両方から伸びて来て、もう少しでこの附近もすつかりくつついてしまひさうだつたから、先の心細い商売になつていた。
房一の帰るのを見送つた正文は、玄関から居間へひき返しかけたが、ふと考へなほして診察所の方へ行つた。すると、そこの廻転椅子の上に、行儀わるくずり落ちさうに腰かけて、両脚を床の上に思ひきりのばした恰好の練吉が、新聞紙を両手で顔の上に持ち上げながら読んでいるのを見つけた。