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    何となく、彼はさう云ひたげであつた。実際それは咽喉まで出かゝつていた。若し彼が理窟といふものを知つていたら、日常の些細ささいな事柄からでも尤もらしく意見をすぐに云ひ立てるあの「町の衆」のやうな頭があつたら、彼は勢ひこんで口にしたであらう。だが、彼はさういふ小むつかしいことは面倒臭かつたし、又下手だつた。彼はたゞ感じた。そして暖昧な身振りをしただけだつた。

    その次は「角屋」の婆さんと言われている年寄っただるま茶屋の女が、古くからいたその「角屋」からとび出して一人で汁粉屋をはじめている家である。客の来ているのは見たことがない。婆さんはいつでも「滝屋」という別のだるま屋の囲爐裡の傍で「角屋」の悪口を言っては、硝子戸越しに街道を通る人に媚を送っている。

    「さうです。農林学校の先生だとかをしていられると聞きましたが」

    房一は微笑しながら答へた。彼はそのとき、今日が自分にとつてのはじめての往診だといふことを思ひ出した風だつた。その内心の悦ばしさは厚ぽつたい唇のはしに押へきれず浮び、いくらかはにかんだ風に見えた。この羞はにかみの色は浅黒い饅頭のやうな房一の顔に現れたものだけに、何となく滑稽な感じだつた。

    房一はふと自分に返つて訊いた。

    家の内部でも、房一はしよつちゆう歩きまはつて何度も道具を置き換へていた。古風な玄関の広間はそつくり待合室になつた。つゞく二室は板敷にして薬局と診察室ができ上つた。壁ぎはに立てた大きな薬戸棚、油布張りの固い患者用の寝椅子、青いビロードのふつくり盛り上つた廻転椅子、縁枠を白く塗つた医療器具棚の中には真新しいメスや鋏、鉗子かんしなどがぴかぴか光つて、大事さうに並べてあつた。

    と、房一は練吉の顔を見て思ひ出したらしく、

    伊東は市ではあるが、熱海とは比較にならないほど、ひなびている。けれども温泉場であるから、道路には広告塔があって休むことなく喋りまくり唄いまくっているし、旅館からは絶え間なくラジオががなりたてて、ヘタクソなピアノもきこえる。先方も商売であるから、静かにしろ、と云うわけにはいかない。

    それから間もなく、馬の世話は房一の手に委ゆだねられることになつた。彼は一心に手入をした。彼よりも馬の方が身綺麗であると思はれる位に馬は毛並みも艶々として来た。河土堤の上の長い路で彼は馬を疾駆させるのが常であつた。裸馬の背から腹にかけて一本の木綿帯をくゝりつけ彼は足の親指をその帯にはさんだだけで、小さな逞しい肩を前こごみに手綱をゆるめるために両腕を前に曲げひろげ、鼻の穴をひろげて、馬を走らせた。それは町とは河をへだてた反対側の土堤で、路ははるか上手の殆ど山に突きあたる地点まで伸びていた。彼が馬を奔はしらせるにしたがつて、河苔かはごけの匂ひや山の草木の香などがぱあつと彼をも馬をも包み打つて来る風の中でした。未だ様々な思念や野心などの形づくる場所のない彼の小さな頑丈な肉体の中で、彼の魂は何を欲し何を求めていたのか、裸馬の背でたえず路の前方の或る一点を見つめ、はげしい動揺に身を任かせている彼の眼には、一種大胆不敵な歓喜の情が燃え閃めいていた。河向ふの磧かはらで遊んでいる町の子達は、蹄ひづめの音で房一の姿を認めた。あたりの物静かな、音といへば河の瀬の低い単調な音ばかりでけだるいよどんだ空気の中に突然としてはげしい蹄の音が起る。それは河を越し、町の裏の山腹に反響して、何ごとかあたりをかき乱すやうに物々しく聞える。はじめは房一の姿は見えない。馬だけが、首を張り出し尾をなびかせ、荒々しく何ものか掻きこむやうな形に前脚を速く閃めくさまに繰り出して奔はしるのが見える。そして、その首すぢにつかまつて馬と同じやうに前屈みに身体を張り出した小粒のやうなもの、房一の形が眼に入るのであつた。呼んでも聞えはしない。また、聞えても彼はふりむきもしない。そのまゝはるか上手の方に小さく認めがたくなる。と思ふと、しばらくして又前と同じやうな蹄の音がして、それはしだいに迫つて来て、今度は房一の顔が待ちかまへている子供達にもはつきり認められるやうに思はれる、だが、彼は往きと同じに得体のしれない荒々しい一塊の悪魔の子のやうに、子供達の呆然と眼を瞠みはり立つている対岸を尻眼にかけて疾駆し去るのであつた。

    その様子で、房一は今は隠れもない大石家の内部のごたごたを思ひ出したので、いさゝか間が悪いと云つた顔をしていた。――練吉の妻の茂子は、九月に入つてまもなくぶらりと大石家へもどつて来た。それは一日か二日姿を消していた飼猫がふたゝび舞ひもどつて来たやうな工合だつた。さういふ様子は茂子自身にあつたばかりでなく、大石家の老夫婦にもあつた。が、どういふはずみからか、今まで何年かその気配もなかつた茂子には、十一月に入つた頃から妊娠の兆候が現れた。万事投げやりだつた練吉にも意外だつた。そして、老夫婦と茂子との不和に気を腐らせていた彼は、これが案外緩和剤になるかもしれない、と考へたところが、それを聞いた老夫婦はちよつと眉を動かせたきりで、云ひ合はせたやうに黙つていた。多分、老寄としよりに特有な気の廻し方で、茂子に実子ができれば継子である正雄に対する愛がうすらぐとでも考へたものだらう。この気持は当然茂子に反映した。それに、彼女のつはりは重い方だつたので、さういふ状態で老夫婦と同居しているのは以前よりも辛かつた。で、今度は両方の公然の申し合せで、身体を休めに実家へしばらく行つていることになつた。房一が見かけたといふのは、茂子の帰るところである。

    徳次は身体中からこみ上げて来る悦よろこばしさのためにさうなつたかの如く、思ひ切り伸び上るやうにして答へた。だが、それも向ふにはよく聞きとれなかつたらしい。房一は川向ふで手をふつた。下手の方を指さした。徳次には判らなかつた。房一は又自転車にのつた。

    「や、先日はどうも――」

    小谷は仰山ぎやうさんな表情になつた。

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